一日一善とは

一日一善を目標に掲げるということは、今までに善行(一善に値する)を行わない日があったという自覚があり、それをよしと思わなかったのである。過去を反省し、社会における自己の行動を修正することを目標としている。ここで問題となるのは、一日一善の「一善」にあたる善行の定義である。何をもって「善行」とするのか、それを誰が定義するのか。多くの場合、一日一善を目標に掲げた本人(以後、単に「本人」と呼ぶ)が定義するのではないか。本人の個人的エゴを支えとして善行を定義するのである。「善行」というものが実体をもって存在しない以上、定義の支えを個人のエゴに求めるのは仕方のないことであろう。しかし、その定義を本人が行うことには問題がある。なぜなら、人間の自我(というものが存在するとして)は不変ではないので、自我に基づくエゴも絶えず変化していくことになるから、当然、エゴに基づく「善行」の定義も絶えず変化していくのである。本人が現時点に定義した「善行」をもってして過去の行動を振り返ることは無意味である。歴史の書き換えが生じるからである。例えば、過去に電車で老人に席を譲ったことがあるとしよう。当時の本人は、老人に席を譲る行為を善行の定義に含めており、その定義に基づき行動したのであるが、その行動を振り返るとき、「老人だからといって、一方的に席を譲るのは逆に失礼だったのではないか」と、過去の「善行」を否定することが可能なのである。逆に言えば、「非善行(当時は善行に値しない行為を、ここでは非善行と呼ぶ)」を後になって「善行」とすることも可能なのである。皆、過去の自分を否定するよりは肯定したいと願っている(例えば青春時代など、当時は辛い思いをしていたとしても、振り返るときには美しく見えてしまう)ので、どうしても過去の行動に合わせて、現時点での「善行」の定義を歪めてしまうのである。せっかく掲げた一日一善もマスターベーションに終わってしまう。では「善行」の定義を他人に求めたらどうであろうか。この場合、「善行」を定義するのは社会である(善行が個人を対象としたものである場合は対象者となった個人のエゴが定義することもあろうが、多くの場合、善行は社会に対する行為だと思われる)。では社会がどのように「善行」を定義するかといえば、国家がメディアを通して吹き込むイデオロギーに基づく。日本なら資本主義に基づいて定義される。「同情するなら金をくれ」という相手に金を渡すのは−